東日本大震災から10年

2011年3月11日14時46分。M9、震度7、死者不明者合わせて22,500人もの人々が犠牲となった東日本大震災が発生しました。

当協会発足前のボランティア隊(日本ステンレス工業株式会社社員)はテレビに釘付けになりながら、阪神淡路大震災、新潟県中越地震、新潟県中越沖地震に続く4度目の出動体制を整える準備に入っていました。
しかしこの時は20m~30mの巨大な津波の被害が加わっているため、これまでの震災時の活動とは勝手が違うことが予想されます。テレビ報道される情報は錯綜しており、日に日に混乱の様子が明らかになってきました。
道路は寸断され、ガソリン供給も滞り身動きが取れていない。加えて福島の原発事故の影響で、関東はおろか国外への避難も始まるパニックとも言える状態です。もちろん、ボランティアセンターは稼働すらできず、自衛隊が動いたものの、民間のボランティア受け入れが始まったのはかなり後になってからでした。

私たちは動くと決めた以上、そうした状況に手をこまねいている暇はありません。早速、親交のあった仙台の県議会議員(庄司賢一氏)と連絡を取り合い、活動準備を進めました。
長丁場になることを予測し、4月25日、26日の2日間の日程で事前に現地調査とアパートを借りに仙台に赴くなどの下準備を整えたのち、ボランティア隊は4月30日の夜に出発、翌日深夜2時に到着。宮城野区蒲生地区を中心に庄司議員と活動開始をしたのは5月1日でした。
当時の被災地は危機的な状況であることから、ボランティアセンターとは関係なく独自に乗り込むことになりました。今では、ボランティアセンターが主軸となっての活動が当然ですが、当時は特異な災害時におけるマニュアルは無いに等しく、臨機応変さを求められました。特異な災害であるが故、特異な行動力が必要になったのです。とにかく被災地の光景は悲惨の一言でした。

到着後は早速、被災された民家の応急処置作業を開始しました。
地震で損壊した屋根へのブルーシート掛けは手慣れていましたが、津波が運んできた床下の泥上げは困難を極めました。まず畳を上げ、外に運び出します。水を含んだ畳はとても重いのです。さらに床をバールでこじ開けるのですが、水を含んだ木材は膨張するため中々持ち上がらりません。そして垂木を外し、スコップで泥をすくい上げるのですが、これがかなりの重労働です。さらに、壁に張り付いた泥を拭います。2m以上の浸水によって水に浸かった家財や電気製品はすべて使い物になりません。
しかしこのような悲惨な状態であっても、家は流されずに済んだことは不幸中の幸いと言えるのかもしれないと思えてくるほど、周囲には跡形もなく流され、または瓦礫と化した家々が散らばっているという状況でした。

ボランティア隊には山梨県大月市の太鼓チーム「紅富士太鼓」メンバーの中高生、アメリカからAETのメンバーも参加してくれて、水洗いやガレキの撤去、買い出しなどを助けてくれました。また、秋山村から元文化協会の会長の佐藤孝延氏も参加していただきました。
ボランティア活動に於いては人員の数と適切な役割分担が不可欠です。
高所作業は職人で行いますが、地上での撤去作業などの手伝いは人手がいります。家族たったの5〜6人だけでこうした作業を行うとすれば、気が遠くなるような月日がかかり、そのうちに心が折れてしまうであろうことは容易に想像できます。

これほどのひどい状況の中で、被災者に向き合う際には状況を聞いてあげるのも必要と聞きました。今後、新たな生活に向かう際に被災者が負けないための活力ともなるとか。
そうして伺った被災者の声は生々しいものでした。
鳴り響く警報に、ご主人は「早く車で非難しろ!俺は、息子を迎えに行く!」奥さんと娘さんとおばあちゃんの三人で車に乗り込み避難先へ。その途中で津波に車ごと流されたものの、かろうじて車は何かに引っかかってくれた。
「お陰で命だけは…」
車中から這い出し、ずぶ濡れのまま車の屋根の上で三人肩を回し抱き合いながら寄り添い、雪がちらつく中、夜通し救援を待つことに。水はなかなか引かず、極限に達する寒さの中で、生ぬるい排尿(オシッコ)で「あったかいよ」などと笑いながら「頑張ろう!」と励ましあったそうです。幸いにもご家族に死者が出ることはなく再会することができました。
そんな九死に一生の体験をされたご家族が、ガレキを片付けながら、
「ありがとう、ありがとう」
「申し訳ない、申し訳ない」
何度もお礼を繰り返しておられました。
私はあまりの悲惨さに「頑張りましょう!」というのが精いっぱいでした。

余震が続く被災地での活動は、緊張と不慣れな作業、勝手のわからない土地柄にも触れることで疲労が積もります。唯一の楽しみは夕食時です。一日中被災者と向き合い、お互い作業の労苦を共にし、戦い挑んだ仲間同士が、営業し始めたスーパーで食材を買い求めたて作った料理での食事は、有り合わせではあるけれども格別です。
食事が終わると、明日の活動を打ち合わせ、時折やってくる余震の揺れを心配しながらも雑魚寝で眠り込む。初めて参加した中高生や若者たちの中に、「明日も被災者のため!」との思いが湧き、心身は自然と鍛えられていきました。

一週間もすると不思議と余震にも慣れてきました。商業も動き始めます。店主たちはこれからの不安を肌で感じながらも、気丈に店を切り盛りしていました。被災地においては『お店を使ってあげるのも活動』と言った方がいましたが、実際、本当にそうだと思いました。
活動を続ける中で、ある日、メンバーから「何か美味しいもの食べたいです」という要望が上がり、お寿司屋さんに入っりました。暖簾をくぐると、「いらっしゃい!」と威勢の良い声が迎えてくれました。
「何か地元の魚をお願いします」
「これが美味しいよ!」
明るく元気のいい大将。普通の会話に安堵して、尋ねました。
「大将の被害はあったのですか?」
「そうなんですよ、弟をなくしましてね。」
思わず絶句し、次の言葉が出ませんでした。何もなかったように振る舞うことで、割り切れない気持ちを鼓舞していたのでしょう。悲しみ苦しみに負けてなるものか!との想いが伝わってきました。

このように、被災者と向き合いながらの活動は様々な人間模様に向き合うことになりました。
それは我が地域でも、いつ起こるかも知れない災害への訓練でもある!と、自身に言い聞かせ、淡々と作業に励むのですが、限界を感じる不安がありました。日本ステンレス工業(株)一社だけでは、この次にもし災害が起きたとしたら、駆け付けることが出来るだろうか?ボランティア活動は「自身を見つめなおす場」である。この格言との葛藤も生まれます。
「もっと職人がいれば!」
これまでの活動の際にも「災害時に、駆け付けてあげたい!」と思っている職人は多数いました。しかし、職人は一人親方が多く、日々家族を守るために重労働をこなしています。それを、投げ出してまでボランティア参加はできません。そこで私は、災害時に動ける職人組織の結成を、どこかの時期で呼びかけようと決心したのでした。

そしてその後の2016年、熊本・鳥取の二度の災害支援に赴いたことをきっかけに、2017年に「一般社団法人 災害復旧職人派遣協会」を立ち上げることとなりました。
仙台の庄司議員と同じく、縁というものは不思議なものです。国際交流活動をきっかけに交流のあった「NPO法人グラウンドワーク三島」都留文科大学教授・渡辺豊博氏、さらに当時衆議院議員であった長崎幸太郎現山梨県知事とも熊本で一緒にボランティア活動を行うことになりました。その三人で「災害復旧職人派遣協会」設立へと向かったのです。東日本大震災から想いを形に表すまで、6年の年月を要しました。

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