ボランティア精神が海を越えた ネパール大地震での活動

東日本大震災から5年後の4月25日・11時56分にネパール大地震が発生しました。
地震の規模はM8.1。直下型地震では「阪神淡路大震災」の30倍。死者は8,460人・被災者は約800万人の大被害であり、この時の揺れは遠く台湾でも観測されました。(日本はこの1年後の1月に熊本大震災に見舞われています)

地震が起こらないと言われたネパールで発生した、まさかの大地震でした。つまり「地震はどこでも起こりうる」ということです。エベレスト登山中に雪崩に飲み込まれた方もいました。ネパールには世界遺産が数多くあり被害は甚大でした。
家屋はレンガ積み造りが多く、コンクリート造りであっても日本とは構造が違って脆弱な造りであるため、被災者は一瞬で住む場所を無くしてしまったのでした。  
広場という広場には、粗末なテントでしのぎながら援助を待っている人々。ネパールへ行ったことがある方は経験があると思いますが、水道の蛇口から出る水は飲めません。ペットボトルの水のみが頼りであり、被災地の状況は悲惨そのものです。

インド・パキスタン・中国などの近隣諸国から、食料・水・毛布・テントなどは入ってきていたようですが、もちろん数は不足しています。
また、現地の交通事情の悪さから、避難民には行き届いていない様子でした。
今まで、阪神淡路、新潟中越、新潟中越沖、東日本の4度の震災で経験したことは、トイレが不備な事でした。
日本での被災は冬・秋でしたので、衛生上の問題がそんなに深刻にはなりませんでした。しかしネパールは4月であっても気温は高く、さらにこれから本格的な夏に向かう時期でした。普段でも“し尿”は、垂れ流しの中ですから、先ずは至急に簡易トイレを配布。続けてバイオトイレの設置が急がれます。
日本での被災地でさえ、トイレが一番苦労します。
ネパールは現代でもトイレ事情は悪く、し尿は河に垂れ流し状態で悪臭が漂います。国際空港のトイレでさえも、日本人は使用を避けるほどです。不衛生からの感染症・土壌汚染が深刻になるのは目に見えていました。
日本ステンレス工業(株)としても早速災害ボランティア活動計画作成に着手しましたが、未だに電話は不通で大使館もつながりません。
これまで国内の被災地でのボランティア活動は4度の経験を積んで来ましたが、海外ボランティア活動に向かうのは初めてでした。

ネパールとの交流は、弊社の地域文化活動の一つである紅富士太鼓での演奏活動がきっかけでした。その10年目を機に、思えば、大地震前年の2014年11月1日に、ネパール政府からNGO法人として認可を受け「ネパール日本友好協会」を立ち上げていました。
協会の設立活動の一環として、先ず初めにネパールへ「バイオトイレ設置」を計画していました。富士山頂にバイオトイレ設置の実績をお持ちの、富士山学で著名な都留文科大学・渡辺豊博教授に協力を依頼ののち、その年の2月にネパールを訪問していただき、直接、大統領・首相への説明もしていただきました。
その矢先の大地震でした。NGO法人認可を受けて半年後の本格的な活動が、まさか大地震の被災支援となるとは夢にも思いませんでした。

このような縁があり、渡辺教授率いる「NPOグラウンドワーク三島」や「都留文科大学生」の協力を得てネパール支援に向かいました。
(後に、参加した学生たちから、渡航費や宿泊費はアルバイトなどで工面したと聞き感動を覚えました)
「紅富士太鼓」メンバーも加わり現地調整に入りました。さらに、渡辺教授の動きは素早く、物資調達のため募金活動も行う事になりました。
現地とは一週間ほどで連絡がつき、不足している必需品などについて話し合った結果、恵まれない村々に配るよう調整することになりました。食料、薬、オムツ、生理用品、簡易トイレ等を持参することに決め、食料は高騰していたが現地調達することに決めました。

募金活動は山梨・静岡県で行い、山梨県側は、長年ネパール学生と交流のあった大月市長・山梨市長の協力も得て、市庁舎入り口に募金箱を設置していただきました。
ユネスコ協会・山梨県環境会議・日川高校・甲陵高校・紅富士太鼓の協力を得て、駅前で10日間の募金活動を行いました。
活動の依頼はしていませんでしたが、自ら進んで参加をしてくれた特に学生の方々には頭が下がりました。
チラシを持って行かれた方など、多数の方々に協力していただき、後日事務所まで持参してくれた方もいらっしゃいました。
その結果、なんと154万円の寄付金と、物資もたくさん集めることができました。さらに、長年交流を継続している山梨南中学生からは99,000円もの寄付金もいただきました。
その後の寄付金を合わせ、総額205万円。心温まる人々の善意に心を打たれました。同時に、共に活動したメンバーの素早い行動の賜物であり、善意の行動が人々を動かしたと自負しています。「いざ!」となった時に、どう動けるかが試されました。

現地「ネパール日本友好協会」側と毎日のように連絡を取り合っていましたが、トリブバン国際空港は救援物資の飛行機でごった返し、混乱が続いていました。(ネパール国際空港は一港のみ)
ネパールの日本大使館からは、様子を見るようにとの指示もあり、日本からの様子見が続いていました。
しかし居てもたってもいられず、5月30日、10名の海外ボランティア隊として羽田空港を後にしたのでした。

メパールの首都カトマンズにあるトリプバン国際空港までの道のりはかなり遠いものでした。予定の便が羽田を発つのは夜中でしたが、物資の積み込みチェックやタ食を考えるて19時に集合することに。山梨・静岡のメンバーは16時頃の出発でした。
羽田出発からタイまでは約7時間。早朝4時半頃にトリブバン国際空港に到着。4時間半の待ち時間を経てネパールまで3時間半。飛行機に乗り始めて到着まで約15時間を要しました。機内では熟睡できるはずもなく仮眠程度の睡眠でした。こうして6月1日に到着したのでした。
ホテルでチェックインし、ボランティア活動の打ち合わせをしてからタ食。結局、約24時間後にやっと睡眠(爆睡)を取ることができたのでした。まさに体力との戦いともいえるスケジュールでした。
「大丈夫?疲れていない?」励まし合いながらの長い道のりは、参加者10名。全員元気でした。
「ネパールのために!」との思いが、精神力を強くさせているのが分かります。

首都カトマンズのトリブバン空港には、世界各国からの支援物資が山積みになっていました。
日本においての災害時でも同様ですが、緊急物資はほとんど市民には直ぐには行き届かないのが現状です。
なぜならば、道路は寸断され、家屋やビルに生き埋めにされた遺体の捜索、倒壊した家屋や道路の整備、水道設備などのインフラ整備で役所は動きが取れません。
政府も役人も被災者であり、物資がいくら入ってきても配送が行き届かないのです。何処の国でも、災害時に物資を送るだけでは被災地には受け入れの困難があるのでしょう。東日本地震では道路が寸断され、地域は孤立化していました。やはり送るだけは…。実際に持参して困っている地域に運んであげるのが一番であることは間違いありません。
新潟沖地震の際は、何万箱の善意ある品々が体育館に運び込まれたものの、仕分け作業ができずに殆どと言っていいほど廃棄処分となりました。中身はお菓子や長くつ、洋服、下着など様々。これを開封するための人員も労力もなっく、結局は焼却処分費に何億とか…。

態本地震では、水が不足とのことで各地から何百万本が郵送されましたが、被災地の事情が落ち着きを取り戻せば処分となります。災害時における水・食料不足は3日から1週間くらいです。その後の配送は無駄が多くなると言っても過言ではありません。災害時の配送は翌日には到着せず、交通事情が悪いため数日間後回しとなるのが実情です。それらが届く前に自衛隊の物資配布が始まります。
千葉県の台風被害では、全国各県からブルーシートが送られましたが、各市町村にはブルーシートが山積みで、市民は誰かに掛けてもらおうとして10枚ほど持って行きますが、屋根に登って掛けられる人がいません。ただただ、玄関先に積み置いてあるだけ、という家ががほとんどでした。
山梨県は当「災害復旧職人派遣協会」と協定を結び、ブルーシートと屋根に登れる職人をセットにしました。全国初の画期的な仕組みを作りだしたのです。今、全国展開へと動き出しています。

話を戻します。我々はカトマンズに拠点を置き、ここからは「ネパール日本友好協会」が中心となって翌日から災害状況の視察を行いました。3万人もの被災者が軍の広場で援助を待っていました。どこの被災地でも水とトイレが問題です。


渡航する前に打合せはしていましたが、現実は厳しいものでした。何度か打合せしながら、地元ロータリークラブとも連携をはかりました。日本から持ち込んだ物資と義援金200万円を手渡し、米・大豆・小麦粉・トウモロコシ粉・砂糖・塩などの食料を事前に準備をして頂きました。さらに、各学校への教科書、筆記用具、カバンなどを購入し配布しました。

翌日、往復150km、12時間の道のりの先にあるカウレ村に向かいました。中型バスに我々10名とネパール日本友好協会のメンバー5名、その他、医師団と看護師15名の総勢30名。さらにトラックには食料などを満載し、バスにバイオトイレ、テント、Tシャツなど積み込めるだけ積み込んで出発。途中の集落は、何処も壊滅的な様子でした。

山々には日本のようにガードレールらしきものは無く、道路はデコボコ道でした。途中、昨日までそこになかった大きな石に道を塞がれました。つい先ほどの余震で落ちてきたようです。全員降りてトラックを押したりもしました。崖下に落ちている車も目に入ります。日本と違い、物資や道路整備にしても、地震から1ヶ月以上たっていてもほとんど支援がないのです。
そんな道のりで6時間かけ、ようやくカウレ村に到着しました。カウレ村には警備も含め軍隊・外務大臣も参加してくれました。村人たちは、辛うじて被災を免れた家に仮住まいして貧しい生活をしていました。軍隊のお陰で混乱もなく、村全体の方々に一人一人物資を配給でき、医療団も無事に治療に専念することが出来たのでした。ともすれば、物資の奪い合いなどが起きても不思議ではない状況でもあったのです。


災害支援の段取りを付けてくれた「ネパール日本友好協会」のメンバーに心から感謝を申し上げました。同時に、ネパールのメンバーも大臣も軍隊も「遠い日本から、村まで駆けつけてくれた友人!」と、感謝の言葉を村人たちから伝えられました。
物資を送るだけではなく、我々も同苦し、人と人、心と心の結び付くことの必要性を感じました。災生時に資金や物資を贈る想いは大切です。
もう一歩踏み込んで「身を投じる覚悟を持ち続けてゆきたいと思える人材を育まなければならない。」と実感しました。

こうした支援活動の間を縫って、デューパ前首相を表敬訪問し、サワセナ高校へ義援金を持参しました。
トリブバン大学、ナーヤアーヤム大学、マルキ政府書記官などとの会談を通し、今後の日本とネパールの交流をさらに深めることを確認し合いました。
5月30日から6月3日までの5日間ではありましたが、お陰様で活動期間中全員が元気でした。10名のメンバーのうち6人がネパールは初めてでしたが、ケガもなく無事にボランティア活動をやり切って帰路につくことができたのでした。

代表理事 石岡 博実

ネパール大地震ボランティア活動の記録はこちら

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